1 はじめに

世界アンチ・ドーピング機構が策定している禁止表国際基準(以下「禁止表」といいます。)M2.2において、静脈注射は禁止方法とされており、一定の例外にあたらない限りアンチ・ドーピング規則違反となります。
現時点で有効な、2018年版禁止表M2.2は、次のような定めになっています。

Intravenous infusions and/or injections of more than a total of 100 mL per 12 hour period except for those legitimately received in the course of hospital treatments, surgical procedures or clinical diagnostic investigations
(JADA訳)
静脈内注入および/または静脈注射で、12時間あたり計100mLを超える場合は禁止される。但し、入院、外科手術、または臨床検査のそれぞれの過程において正当に受ける場合は除く。

この禁止表M2.2に関し、公益財団法人日本アンチ・ドーピング機構(JADA)は、2018年3月8日、M2.2の条文中の“hospital”は入院設備を有する医療機関のことであり、入院設備を持たない無床診療所は該当しないため、無床診療所で禁止される量を超える静脈注射を行う場合には、TUEが必要である、という見解を公表しました。
しかし、この見解が公表されるまで、日本では、入院設備を持たない無床診療所での禁止される量の静脈注射にはTUEが必要ということが十分に認識されていませんでした。そのため、日本のアスリートや競技者支援要員が、従前の認識のまま、TUEを取得せずに禁止されている量の静脈注射を行い、アンチ・ドーピング規則違反となることが懸念されます。
また、2018年3月8日付けJADA見解が、禁止表M2.2の正しい解釈ということになると、WADAが、いつから、例外的に許容される静脈注射の要件を「入院設備を有する医療機関」での静脈注射に限るようになったのか疑問が残ります。過去にスポーツ仲裁裁判所(CAS)の仲裁パネルが示した、静脈注射が、正当な医療行為とされる6要件には、「入院設備を有する医療機関」であることまでは明示的に要求されていなかったはずです。
そこで、本コラムでは、禁止表の改訂履歴をたどった上で、2018年3月8日付けJADA見解を周知する必要性について述べたいと思います。

2 禁止表の改訂履歴

点滴の静脈注射に関する禁止表M2.2の規定の変遷は、末尾の図に示したとおりです。
2006年版禁止表2.bの下で、競技者に対して行われた静脈注射が「正当な緊急の医療行為」にあたるかが問題となったCASの仲裁事案において、CASの仲裁パネルは、「正当な緊急の医療行為」にあたるかの要件として、以下の6要件を示しました。もっとも、この6要件の中では、「入院設備を有する医療機関」であることまでは、明示的に要求されていないことがわかります(CAS 2006/A/1102 & TAS 2006/A/1146 [ⅰ])。

(1)当該医療行為が、特定の競技者の疾病又は傷病を治癒するために必要であること。
(2)与えられた状況下で、ドーピングの定義に該当しない他の採りうる有効な治療方法が存在しないこと。
(3)当該医療行為が競技者の競技能力を向上させうるものではないこと。
(4)当該医療行為に先立ち競技者に対する医学的診断がなされていること。
(5)当該医療行為が,資格を保有する医療従事者により,適切な医療環境で実施されていること。
(6)当該医療行為の適切な記録が保管され,かつ外部からの検査に応じ提供される状態となっていること。

その後、禁止表M2.2は、毎年のように改訂がなされてきましたが、2010年から2017年までの禁止表では、“those legitimately received in the course of hospital admission”(JADA訳:医療機関の受診過程において正当に受ける静脈注射)が、禁止される静脈注射から除外されることになりました。
もっとも、この2010年から2017年までの禁止表において、2009年までと異なり“hospital”の文言が使用されていることからすれば、遅くとも、2010年以降は、入院設備を有しない医療機関の受診過程における静脈注射については、TUEを取得することが必要であったと解釈するのが妥当に思われます。
このように、禁止表の改訂履歴を辿っていくと、WADAは、2010年を境として、例外的に許容される静脈注射の要件を「入院設備を有する医療機関」での静脈注射に限ったものと推察されます。
その後、禁止表M2.2は、毎年のように改訂がなされてきましたが、2010年から2017年までの禁止表では、“those legitimately received in the course of hospital admission”(JADA訳:医療機関の受診過程において正当に受ける静脈注射)が、禁止される静脈注射から除外されることになりました。
もっとも、この2010年から2017年までの禁止表において、2009年までと異なり“hospital”の文言が使用されていることからすれば、遅くとも、2010年以降は、入院設備を有しない医療機関の受診過程における静脈注射については、TUEを取得することが必要であったと解釈するのが妥当に思われます。
このように、禁止表の改訂履歴を辿っていくと、WADAは、2010年を境として、例外的に許容される静脈注射の要件を「入院設備を有する医療機関」での静脈注射に限ったものと推察されます。

3 2018年3月8日付けJADA見解を周知する必要性

ところが、日本では、WADAの立場に変化があったと思われる2010年以降も、入院設備を有しない医療機関の受診過程において静脈注射を行う場合に、TUEを取得することが必要であるとは十分に認識されてこなかったように思います。そのため、日本のアスリートの中には、2018年3月8日付けJADA見解が示された現在でもなお、入院設備を有しない医療機関の受診過程において静脈注射を行う場合にはTUEを取得することは不要であると考えているアスリートが少なからずいると思われます。
この点、日本アンチ・ドーピング規程2.2項違反は、違反についての「意図」や「過誤」にかかわらず成立するため、上記の考えのアスリートには、アンチ・ドーピング規則違反になるリスクがあります。
こうした日本のアスリートが抱えているリスクを考えてみると、日本のアスリートの誤解を正すために、2018年3月8日付けJADA見解を周知することが必要だと思います。他方で、そもそも、JADAが、「無床診療所で禁止される量を超える静脈注射を行う場合には、TUEが必要である」という注意喚起を始めたのが、2018年3月8日のタイミングで適切であったのかという疑問もわきます。既に2010年版禁止表から、“hospital”の文言が使用されていたことから、JADAによる注意喚起は2010年の時点で行われるべきだったのでは、という見方もできると思います。
ここで、TUEの要否の問題と、TUEが有効か(TUEの要件を満たすか)という問題は区別されることも指摘しておきます。ここまで論じてきたのはTUEの要否の問題であり、CASの仲裁パネルの6要件も、TUEが必要となるかどうかに関する要件です。TUEが有効とされるための要件においては、医療機関が有床かどうかという問題は出てきません [ii]。これら論点を混同しないよう注意してください。

4 終わりに

これまで述べたとおり、禁止表M2.2の改訂履歴からすれば、遅くとも、2010年以降は、「無床診療所で禁止される量を超える静脈注射を行う場合には、TUEが必要」であった可能性が高いといえます。
ところが、日本では、現在でも、「無床診療所で禁止される量を超える静脈注射を行う場合はTUEは不要」という誤った解釈の下で静脈注射を受けようとするアスリートがいる可能性があるため、2018年3月8日付けJADA見解を、一刻も早く、日本全国のアスリートや競技者支援要員に周知する必要があると思います。
そのためには、JADAとしても、2018年3月8日付けJADA見解を、公式ウェブサイトで公表することに加えて、日本のアスリートや競技団体関係者への周知を徹底し、従前までの認識を改めさせる責務があると思います。その一方で、アスリートや競技者支援要員としても、2018年3月8日付けJADA見解を契機に、禁止表の原文が英語版であることを再認識し、常に英語版の禁止表を確認する習慣をつけることも必要だと思います。
最後に、2018年版禁止表の「except for those legitimately received in the course of hospital treatments…」は、明確化のために、「但し、入院施設のある医療機関での治療…の過程において正当に受ける場合は除く。」と訳されるべきではないかと思います。この点については、今後さらなる検討がなされることを期待します。
筆者は、2018年3月8日付けJADA見解が周知され、禁止表M2.2の誤った解釈を理由とするアンチ・ドーピング規則違反が予防されることを切に願っています。

執筆:虎ノ門協同法律事務所 弁護士 多賀 啓、Field-R法律事務所 弁護士 杉山翔一

WADA禁止表(現)M2.2の変遷

WADA禁止表原文 日本語訳
2018 2. Intravenous infusions and/or injections of more than a total of 100 mL per 12 hour period except for those legitimately received in the course of hospital treatments, surgical procedures or clinical diagnostic investigations. 2. 静脈内注入および/または静脈注射で、12時間あたり計100mLを超える場合は 禁止される。但し、入院、外科手術、または臨床検査のそれぞれの過程において 正当に受ける場合は除く。
2017

2015
2. Intravenous infusions and/or injections of more than 50 mL per 6 hour period except for those legitimately received in the course of hospital admissions, surgical procedures or clinical investigations. 2.静脈内注入および/または6時間あたりで50mLを超える静脈注射は禁止される。但し、医療機関の受診過程※、外科手術、または臨床的検査において正当に受ける静脈内注入は除く。
※JADA訳注:救急搬送中の処置、外来および入院中の処置を全て含む。
2014 2. Intravenous infusions and/or injections of more than 50 mL per 6 hour period except for those legitimately received in the course of hospital admissions or clinical investigations. 2.静脈内注入および/または6時間あたりで50mLを超える静脈注射は禁止される。但し、医療機関 の受診過程※、また臨床的検査において正当に受ける静脈内注入は除く。
※JADA訳注:救急搬送中の処置、外来および入院中の処置を全て含む。
2013 2. Intravenous infusions and/or injections of more than 50 mL per 6 hour period except for those legitimately received in the course of hospital admissions or clinical investigations. 2.静脈内注入および/または6時間あたりで50mLを超える静脈注射は禁止される。但し、医療機関 の受診過程※、また臨床的検査において正当に受ける静脈内注入は除く。
※JADA訳注:救急搬送中の処置、外来および入院中の処置を全て含む。
2012 2. Intravenous infusions and/or injections of more than 50 mL per 6 hour period are prohibited except for those legitimately received in the course of hospital admissions or clinical investigations. 2.静脈内注入および/または6時間あたりで50mLを超える静脈注射は禁止される。但し、医療機関 の受診過程※、また臨床的検査において正当に受ける静脈内注入は除く。
※JADA訳注:救急搬送中の処置、外来および入院中の処置を全て含む。
2011

2010
2. Intravenous infusions are prohibited except for those legitimately received in the course of hospital admissions or clinical investigations. 2.静脈内注入は禁止される。但し、医療機関の受診過程※、または臨床的検査において正当に受ける 静脈内注入は除く。
※JADA訳注:救急搬送中の処置、外来及び入院中の処置を全て含む。
2009 2. Intravenous infusions are prohibited except in the management of surgical procedures, medical emergencies or clinical investigations. 2. 静脈内注入は禁止される。但し、外科的処置の管理、救急医療または臨床的検査における使用は除く。
2008 2. Intravenous infusion is prohibited. In an acute medical situation where this method is deemed necessary, a retroactive Therapeutic Use Exemption will be required. 2.静脈内注入は禁止される。緊急の医療状況においてこの方法が必要であると判断される場合、遡 及的治療目的使用に係る除外措置が必要となる。
2007 2. Intravenous infusions are prohibited, except as a legitimate medical treatment. 2. 正当な医療行為を除き、静脈内注入は禁止される。
2006 b. Intravenous infusions are prohibited, ecept as a legitimate acute medical treatment. b.正当な緊急の医療行為を除き、静脈内注入は禁止される。
2005 The following are prohibited:
Tampering, or attempting to tamper, in oreder to alter the integrity and validity of Samples collected in Doping Cotrols.
These include but are not limited to intravenous infusions※, catheterisation, and urine substitution.
※Except as a legitimate acute medical treatment, intravenous infusions are prohibited.
下記が禁止される。
ドーピングコントロールで採取された検体の完全性及び有効性を変化させるために改ざん又は改ざん
しようとすること。
具体例として、点滴静注*、カテーテルの使用、尿のすり替えなどがあげられる。
* 正当な緊急の医療行為を除き、点滴静注は禁止される。
※赤字筆者

 


[i] CAS 2006/A/1102 Johannes Eder v/Ski Austria & TAS 2006/A/1146 Agence Mondiale Antidopage (AMA/WADA) c/Johannes Eder & Ski Austria
Arbitration CAS 2002/A/389, 390, 391, 392 & 393 A, B, C, D & E / International Olympic Committee (IOC), award of 20 March 2003

[ii] 事前のTUEが有効とされるためには、①禁止物質又は禁止方法が深刻な又は慢性の疾患治療のために必要であること。仮に禁止物質又は禁止方法が用いられなければ、競技者が健康に対して重大な障害を受けるであろうこと、② 禁止物質又は禁止方法の治療目的使用が、競技者の通常の健康状態への回復を超えて追加的競技能力向上をもたらさない高度の蓋然性があること、③ 禁止物質又は禁止方法の使用以外に合理的な代替治療法が存在しないこと。禁止物質又は禁止方法の使用の必要性が、全部又は一部、従前禁止されていた物質又は方法の使用から生じたものではないこと、という要件を満たす必要があり(TUEに関する国際基準4.1項)、事後のTUEが有効とされるためには、①緊急治療又は深刻な病状の治療の必要性、②他の例外的事情のため、競技者が検体採取前に申請を出す時間又は機会がなく又はTUE委員会が検体採取前に申請を考慮する時間又は機会がなかったこと、③規則が競技者による遡及的TUEの申請を要求又は許容していたこと、又は、④WADAとアンチ・ドーピング機関の間で公平性が遡及的TUEを認めることを要求していると合意されること、という要件を満たす必要があります(TUEに関する国際基準4.3項)。