1.暫定的資格停止制度の改善の余地

2019年1月30日、2018年平昌オリンピック冬季競技大会のドーピング検査において、尿検体からアセタゾラミドという禁止物質が検出された齋藤慧選手と国際スケート連盟(International Skating Union: ISU)との間で、齋藤選手を資格停止期間を伴わない「けん責」処分とする和解が成立した、との報道がされました[i]
代理人弁護士の報道機関向けリリースよれば、齋藤選手はドーピング検査以前に飲食した物に極めて微量のアセタゾラミドが偶発的に付着していたと主張していたところ、ISUも、関係各事実及び証拠に照らしてその可能性が他に考えられる可能性よりも高いと判断したために、「けん責」処分のみの和解に至ることができた、との説明がなされています。アンチ・ドーピング規則において、競技者の過誤・過失が重大ではないとされる場合は例外的であり、仮に重大ではないとされた場合でも「けん責」処分に留まることは限られています。こうしたアンチ・ドーピングの実務からすれば、「けん責」処分のみで済んだという結果が、本件がいかに齋藤選手の過誤・過失の程度が低く、裏を返せば、事前に防ぎようがなかった事例であったのかを示しています。
もっとも、齋藤選手は、2018年2月9日から和解成立までの約1年間、暫定的資格停止に服していました[ii]。暫定的資格停止の間は、オリンピック大会やISU又は日本スケート連盟の主催大会に出場できないだけでなく、大学連盟や所属大学の運動部などこれらの競技団体の傘下で活動することも一切禁じられます。すなわち、齋藤選手は、平昌オリンピック冬季競技大会へ出場できなかっただけでなく、上記和解が成立するまでの約1年間、所属する神奈川大学のスピードスケート部でも活動していないはずです。
齋藤選手の事例で、最終的に下された「けん責」処分よりも、暫定的に服した1年間の資格停止処分の方がはるかに重いという、いわば「逆転現象」ともいうべき事態が生じたことを考えると、アンチ・ドーピングにおける暫定的資格停止制度には、改善の余地があると感じざるを得ません。

2.これまでに日本国内で起きた同種事例

過去、日本人選手の事例に限っても、最終判断が出る前に服した資格停止が、最終的に課された処分よりも重くなった「逆転現象」の事例が、もう1件あります。
それは、2016年に起きたプロサッカー選手の事例です(日本アンチ・ドーピング規律パネル2016-007事件[iii])。当該選手の尿検体からは、禁止物質メチルヘキサンアミンが検出され、当該選手は、2016年10月21日から暫定的資格停止に服しました。後に、禁止物質が検出された原因は、所属クラブの推奨するサプリメントで、かつ、「禁止物質は入っていない」とラベルに記載されているものに、禁止物質が誤って混入していたことであるとわかりました。結果、2016年12月20日に暫定的資格停止は解除され、当該選手は、翌年1月6日、資格停止期間を伴わない「けん責」処分を課されました。
この事例も、齋藤選手の事例と同様に、資格停止に服す必要がないという結論になりましたが、現行制度が暫定的資格停止を前提とする制度になっているため、当該選手は約2か月の暫定的資格停止に服さなければなりませんでした。当該選手は、10月後半から12月後半というJリーグのシーズンの中でも重要な時期にチームの活動から完全に離れなければならなかったのです。
2つの事例に共通しているのは、いずれも、禁止物質がサプリメントや食べ物に、誤って混入していた、という点です。こうした誤混入の事例の場合、仮に競技者自身が、アンチ・ドーピング制度の中で行うべきとされていることを実践したとしても、混入物の摂取により禁止物質が偶発的に体内に侵入することを防ぐのは難しいといえます。

3.そもそも暫定的資格停止制度は、なぜ存在するのか?

暫定的な処分が、最終的に課された処分よりも重いという「逆転現象」が生じるのは、現行のWADA/IOCのアンチ・ドーピング制度が、陽性反応が出た場合に暫定的資格停止を課すことを前提としている制度であるからです。暫定的資格停止の制度は、禁止物質を体内に入れないことが競技者の責任であるという厳格責任の観点や、競技大会や記録の公平性を守るというフェアネスの観点から、設けられている制度です。スポーツ界には、残念ながら、故意にアンチ・ドーピング規則違反を犯した状態で、競技会に出場しようとする競技者が現実にいます。そのため、暫定的資格停止制度が存在しないと、違反者に「競技会や記録が汚されてしまう」、「表彰台に上るチャンスを奪われてしまう」といった弊害が生じてしまいます。つまり、暫定的資格停止の制度が設けられていることには理由や目的があるのです。
他方で、アンチ・ドーピング制度において、暫定的資格停止は「当たり前」の制度ではありません。例えば、アメリカのメジャーリーグや日本のNPBのアンチ・ドーピング制度においては、必ずしも陽性反応が出た段階での暫定的資格停止は前提とされていません[iv]。アンチ・ドーピング制度にとって、暫定的資格停止は必ずしも当たり前ではないのです。また、ここで取り上げた2016年のプロサッカー選手の事例や齋藤選手の事例の場合は、最終的な処分が「けん責」なのですから、当該選手らが最終判断の出るまで、試合や大会に出場していたとしても、競技大会や記録の公平性というフェアネスの観点からも問題はなかったはずです。この点から考えると、齋藤選手や上記サッカー選手は、暫定的資格停止を前提とする制度の弊害を受けたという見方もできると思います。
筆者としては、現行の制度は、故意にアンチ・ドーピング規則違反を犯すものを網にかけようとする結果、制度趣旨にはそぐわない形で逆転現象事例を生み出してしまっている、と考えています。

4.改善の方向性についての私案とプロセス

(1)暫定的資格停止の解除要件の緩和・執行停止の新設
暫定的資格停止制度の制度趣旨や完全に廃止することの弊害と、現状制度の改善の余地の両方の観点から考えると、アンチ・ドーピング規則に定められている暫定的資格停止の解除の制度(WADC7.4項)をもう少し緩やかな要件に変更したり、一定の要件の下で暫定的資格停止の執行を停止する制度を新しく設けることが折衷案として考えられると思います[v]
暫定的資格停止処分の解除や執行停止を認めると、競技会や記録の公平性というフェアネスの観点から大きな問題が生じるのでは、という批判も想定されます。これに対しては、昨年、資格停止処分の執行停止が認められた事例として、ペルーのプロサッカー選手であるパオロ・ゲレーロ選手の事例を紹介したいと思います。2018年ロシアワールドカップの直前、ペルー代表チームのキャプテンであるゲレーロ選手の尿検体から、ペルーで一般的に飲まれているコカ茶を飲んだことで、陽性反応が検出されました。そのため、ゲレーロ選手は、スポーツ仲裁裁判所の仲裁判断により、14か月の資格停止処分を受けました[vi]。ところが、ワールドカップにおいて、ペルーと同じグループリーグに所属するフランス、デンマーク、オーストラリアの代表チームのキャプテンが、ゲレーロ選手のワールドカップへの出場は問題ないとして、出場を求めるレターを作成しました[vii]。こうした事情を一因として、スイス連邦裁判所は、ゲレーロ選手の資格停止処分の執行停止を認めました[viii]。ゲレーロ選手の処分は、暫定的資格停止の段階ではなく、既に処分を受け、その取消しをスイス連邦裁判所で係争中という事案でしたが、それでも、ゲレーロ選手がワールドカップに出場したことで競技大会や記録の公平性に問題が生じた、という声は聞かれませんでした。
確かに、安易に執行停止が認められ、暫定的資格停止制度の趣旨が損なわれることはあってはなりません。しかし、上記のサッカー選手の事例や齋藤選手の事例が示すとおり、禁止物質の混入の立証には時間がかかります。①競技やパフォーマンスに影響の少ない禁止物質が検出された場合で、かつ、②禁止物質の混入による主張を競技者が行おうとしており、競技者側が混入に関する一定の疎明(現行のWADC7.9.1項で定められた暫定的資格停止を解除できる「当該違反が汚染製品に関するものである可能性があること」の立証よりも、程度の低い立証とする)を行ったときに限り、暫定的資格停止の執行停止を受けることができるようにする、という制度であれば、バランスがとれた制度ではないでしょうか。暫定的資格停止の執行停止を受けた場合は、競技者側も服した暫定的資格停止期間による控除(WADC10.11.3項)のメリットを受けられないことにすれば、競技者としても、控除のメリットを捨てて暫定的資格停止を一旦解くための申立てを行うか、暫定的資格停止に服し続け控除のメリットを得るかの選択を迫られることになるので、濫訴的な執行停止の求めを防ぐこともできます。

(2)競技者側の武器対等
齋藤選手のケースの場合は、審問の終結後24時間以内に判断を下さなければいけないオリンピック大会時のCAS アンチ・ドーピング部という特殊な手続でした。陽性反応が出た齋藤選手は、限られた期間で、体内侵入経路等の陽性反応が出た原因を立証することが現実的には不可能で、選手村を離れざるを得なかったのだと思います。
WADAやIOCが、競技大会や記録の公平性というフェアネスの観点を重視して、「有罪推定」の原則に基づき、暫定的資格停止を課すのであれば、競技者側にも迅速に主張、立証する手段(迅速かつ低廉でアクセスでき、限られた時間で反証を可能とする分析機関や、安価で活用できるアンチ・ドーピングの専門知識を有する弁護士等)が与えられていなければ、武器対等とはいえません。
競技者側が利用できる上記の手段が乏しい中では、フェアネスの観点を前面に出して暫定的資格停止の正当性の主張は、競技者に実質的な反証の手段が欠けている点への配慮ができていないと思います。競技者側が利用できる実質的な反証手段をどうやって用意するかは、我が国で開催される2020年の東京五輪・パラリンピック大会に向けても大きな課題だと思います。

(3)競技者側の意見の聴取
最後に、暫定的資格停止制度の改善を検討する上では、ここで紹介した「逆転現象」というべき事例や、故意の違反事例の両方が生じていることを競技者に伝えた上で、競技者側が現行制度の継続を望むのか、改善を望むのか諮ってみることが必要だと思います。仮に、競技の種類や競技大会の種類、検出された禁止薬物の種類といった要素ごとに、結論が分かれるのであれば、当該要素ごとに、異なる複数のルールを設けることも、制度の網が不必要な部分に広がらないようにするために必要な方法だと思います。
現在、2021年WADC改定に向けた意見聴取のプロセスが実施されており[ix] 、3回目となる最後の意見聴取の締め切りは、【2019年3月4日】となっています。これまでの2回の意見聴取を踏まえたWADCのセカンドドラフト[x]では、暫定的資格停止制度については抜本的な変更はありません。
今回が2021年WADC改定に向けて意見をする最後の機会なので、現行の暫定的資格停止制度に問題意識を持つ競技者、関係者は、今こそ声を上げて意見をするときだと思います。

執筆:Field-R法律事務所 弁護士 杉山 翔一


[i] 朝日新聞、19年1月31日朝刊「<解説>主張認められ、処分軽減 ドーピング問題、斎藤選手に譴責」
[ii] CAS, First case registered by the CAS Anti-doping Division in Pyeongchang, https://www.tas-cas.org/fileadmin/user_upload/Media_Release_ADD1_.pdf(2019.2.3アクセス)
[iii] 公益財団帆人日本アンチ・ドーピング機構、2016年度アンチ・ドーピング規則違反決定一覧表、https://www.playtruejapan.org/code/violation/dcision.html(2019.2.3アクセス)
[iv] メジャーリーグ、メジャーリーグ選手会、Major League Baseball’s
Joint Drug Prevention and Treatment Program、http://www.mlb.com/pa/pdf/jda.pdf(2019.2.3アクセス)
[v] 2018年IOC ADR7.6.3.1項には競技者が当該違反が汚染製品による蓋然性(is likely to)を立証した場合に、暫定的資格停止は撤回される旨の規定はありますが、平昌オリンピック冬季競技大会に関連して、最終的に汚染製品事案だった事例(AD 18-001 IOC & ISU v/ Kei SAITO、AD 18-004 IOC & IBSF v/ Nadezhda Sergeeva)のいずれにおいても、利用されていません。2018年IOC ADR、https://www.olympic.org/~/media/Document%20Library/OlympicOrg/IOC/What-We-Do/Protecting-Clean-Athletes/Fight-against-doping/EN-Anti-Doping-Rules-PyeongChang2018.pdf?la=en
[vi] CAS 2018/A/5546 José Paolo Guerrero v. FIFA / CAS 2018/A/5571 WADA v. FIFA & José Paolo Guerrero、https://www.tas-cas.org/fileadmin/user_upload/CAS_2018.A.5546__CAS_2018.A.5571_Award_FINAL.pdf(2019.2.3アクセス)
[vii] 国際プロサッカー選手会、FIFPro Statement: Guerrero World Cup Decision、https://fifpro.org/news/fifpro-statement-guerrero-world-cup-decision/en/(2019.2.3アクセス)
[viii] スイス連邦裁判所、Aufschiebende Wirkung für Beschwerde von Paolo Guerrero
Gewährt、https://www.bger.ch/files/live/sites/bger/files/pdf/Medienmitteilungen/de/4A_318_2018_Intranet_Embargobruch_d.pdf(2019.2.3アクセス)
[ix] WADA, 2021 Code Review, https://www.wada-ama.org/en/what-we-do/the-code/2021-code-review(2019.2.3アクセス)
[x] WADA, Redline versions of the Code Second draft v Current Code, https://www.wada-ama.org/sites/default/files/resources/files/code_redlinefrom2015_december2018_1.pdf(2019.2.3アクセス)