ミラノ・コルティナ五輪アドホック仲裁まとめ
オリンピック期間中またはその直前に発生した紛争を迅速に解決するため、スポーツ仲裁 裁判所(CAS)には特設の「アドホック部門(Ad Hoc Division)」が設置されます。原則とし て24時間以内に裁定を下すこの部門の判断は、スポーツ法実務において極めて重要な意味を持 ちます。
本記事では、ミラノ・コルティナ五輪2026に関連してCASアドホック部門が下した9つの裁 定を分かりやすく解説します。
1. 中立選手(AIN)資格拒否と紛争発生の起算点 (OG 26-01)
Bolshunov v. FIS
事案の概要(CASの結論)
申請者が、国際スキー連盟(FIS)に対して「個人の中立選手(AIN)」としての参加 資格を求めたものの拒否され、提訴に至りました。CASは時間的管轄権の要件を満たさないと して、申立を却下しました。
争点
紛争の発生時期はいつか(CASアドホック部門の時間的管轄要件を満たすか)。
パネルの判断
CASアドホック部門の管轄は「五輪期間中または開会式の10日前以降」に発生した紛 争に限定されます。本件では、FISが資格拒否を通知した2025年12月24日の時点で当事者間に 意見の対立(紛争)が生じていました。選手側が後日理由の開示を求め、FISが2026年1月22日 に返答したことは「新たな紛争」を構成するものではなく、管轄期間外であると判断されまし た。
実務への示唆
紛争発生日は「最初の決定的な拒否・不利益処分」が行われた時点となります。事後 的な問い合わせやその回答によって、紛争発生日を人工的に後ろ倒しにすることはできませ ん。
2. 出場枠配分への異議申し立て (OG 26-02)
The Irish Luge Federation v. FIL
事案の概要(CASの結論)
アイルランドリュージュ連盟(ILF)が、国際リュージュ連盟(FIL)によるロシアの AINへの出場枠配分と、自国選手への不配分を不服として提訴しました。CASは時間的管轄権 なしとして申立を却下しました。
争点
出場枠配分に関する紛争の発生時期(時間的管轄権)。
パネルの判断
ILFは1月22日の時点でFILに対して異議を申し立てており、1月26日のFILの決定を不 服としていました。したがって、本件紛争は開会式(2月6日)の10日前である1月27日より前 に発生していると判断されました。
実務への示唆
出場枠の配分プロセスに関する異議は、枠が確定した時点ですぐに通常仲裁等の手続 きを用いて争うべきであり、五輪直前の特設部門まで待つことは不適切です。
3. 他選手の棄権によるポイント変動と管轄権 (OG 26-03)
Katie Uhlaender v. IBSF
事案の概要(CASの結論)
米国の女子スケルトン選手が、予選大会においてカナダ選手らが意図的に棄権したこ とで付与ポイントが減少し、五輪出場権を逃したとして提訴しました。CASはアドホック部門 の時間的管轄権がないとして却下しました。
争点
本件紛争がCASアドホック部門の時間的管轄要件を満たすか。
パネルの判断
紛争の原因となったレースおよび棄権は1月11日前後に発生しており、遅くともIBSF の暫定決定が出た1月23日には紛争が具体化(crystallized)していました。これは管轄期間の起 算日(1月27日)より前であるため、管轄外とされました。
実務への示唆
五輪の予選ポイントや出場枠に影響を与えるトラブルは、事象が発生した段階で速や かに対応し、アドホック部門以外の通常手続きで争う必要があります。
4. 競技前用具審査の法的性質と内部救済例外 (OG 26-04)
British Bobsleigh & Skeleton Association Limited v. IBSF
事案の概要(CASの結論)
英国ボブスレー・スケルトン協会(BBSA)が、自国選手のヘルメットがIBSFの規則 に適合しており五輪で使用できることの確認を求めて提訴した事案です。IBSFは事前の機器確 認で空気力学的な規定違反があるとして不適合と判断し、これを「競技の場(Field of Play)」 での判定であるためCASの管轄外であると主張しました。CASは管轄権を認め、本案審理へ進 むことを決定しました。本案審理の結果、申請は棄却されました。
争点
競技前の用具事前審査による不適合決定が「Field of Play(競技の場の裁量)」とし てCASの審査対象外となるか。また、内部救済手続きの尽了例外が適用されるか。
パネルの判断
用具が成文化された規則に適合しているかどうかの事前確認はルールの解釈と適用の 問題であり、競技中の瞬間的な裁量判断に適用される「Field of Play」法理は及ばないと判断さ れました。また、IBSFの内部上訴機関の手続きについて、五輪期間中に確実かつ迅速な救済が 保証されているか不透明であるとして、内部救済の尽了を待たずにCASへ提訴できる例外要件 を満たすとされました。
実務への示唆
競技中の審判の判定にはCASは原則介入しませんが、競技前に行われる「用具の規則 適合性」の行政的・事前判断は法的審査の対象となります。内部手続きが時間的に機能しない 場合、アドホック部門へ直接持ち込むことが可能です。
5. 代表選考への不満と管轄権の黙示的合意 (OG 26-05)
Angela Romei v. Italian Ice Sports Federation (FISG)
事案の概要(CASの結論)
イタリアの女子カーリング選手が、コーチの娘が代表に選出されたことに対して縁故 主義を主張し、自身の選出を求めて国内連盟(FISG)を提訴しました。CASは本案を審理した 上で、申請を棄却しました。
争点
CASの管轄権(黙示の合意)および、国内競技連盟に対して代表選手の差し替えを命 じる権限の有無。
パネルの判断
FISGが管轄権に対する異議を述べずに本案の答弁を行ったため、黙示の管轄合意が成 立したとみなされました。しかし本案においては、オリンピック憲章上、代表選手の最終的な エントリー権限は各国のNOC(国内オリンピック委員会)に帰属するため、競技連盟に特定の 選手の差し替えを命じることはできないと判断されました。
実務への示唆
管轄権を争う場合は、本案の答弁を行う前に明確に異議を申し立てる必要がありま す。また、代表選考の是正を求める際は、最終決定権を持つNOCを適切な相手方として巻き込 まなければなりません。
6. 代表選考に対する国際連盟の介入権限 (OG 26-06)
Angela Romei v. World Curling
事案の概要(CASの結論)
事案OG 26-05と同じイタリア女子カーリング選手が、今度は世界カーリング連盟 (WCF)に対して、イタリアの代表選考プロセスを是正するよう求めて提訴しました。CASは 申請を棄却しました。
争点
国際競技連盟(WCF)に、加盟国の代表選考プロセスへ介入し選手を差し替える権限 があるか。
パネルの判断
オリンピック憲章第44.4条により、代表選手のエントリー権限は各国のNOCにのみ帰 属します。国際連盟であるWCFには、加盟国連盟やNOCの選考プロセスに直接介入し、特定の 選手を選出するよう強制・代替する法的権限はないと判断されました。
実務への示唆
国内の代表選考に係るトラブル解決に国際連盟を利用することは法的に不適切です。 権限の所在を正確に把握した上で法的措置を講じる必要があります。
7. ドーピングによる暫定資格停止と内部救済 (OG 26-07)
Rebecca Passler v. NADO Italia etc.
事案の概要(CASの結論)
イタリアのバイアスロン選手が、競技外検査での禁止物質陽性反応に基づく暫定資格 停止処分の取り消しを求めてCASに提訴しました。CASは、内部救済手続きが尽了されていな いとして管轄権なしと判断しました。
争点
提訴の前提となる内部救済手続の尽了(Exhaustion of internal remedies)を満たして いるか。
パネルの判断
アドホック部門への提訴には、原則として国内アンチドーピング機関などの内部救済 手続きを完了している必要があります。当該選手は国内の上訴機関(NADAB)への上訴権を有 していたにもかかわらずそれを行わず、直接CASへ提訴したため、要件不備とされました。
実務への示唆
五輪直前の切迫した状況であっても、ルールで定められた内部上訴プロセスをスキッ プしてCASに飛び込む「ショートカット」は認められません。
8. 指導者に対する倫理違反と暫定資格停止処分 (OG 26-08)
Raimo Reinsalu v. ISU
事案の概要(CASの結論)
エストニアのスケートコーチが、選手への過去の虐待疑惑に基づきISU規律委員会か ら五輪での活動を禁じる暫定資格停止処分を受け、その取り消しを求めて提訴しました。CAS は申請を棄却しました。
争点
最終判断前の暫定資格停止処分が比例原則に反しないか、また無罪の推定を侵害して いないか。
パネルの判断
虐待という重大な嫌疑とコーチが持つ権威的な立場を考慮すると、事実関係の最終確 定前であっても、参加者やスポーツ環境の安全を守る予防的措置として暫定停止を科すことは 合理的かつ比例的であるとされました。また、暫定措置は制裁ではないため、無罪の推定を侵 害するものではないと判断されています。
実務への示唆
セーフガーディング(参加者保護)が重視される現代スポーツにおいて、重大な倫理 違反が疑われる指導者への予防的な暫定資格停止措置は、CASにおいても強力に支持される傾 向にあります。
9. 競技場での政治的表現とヘルメット着用禁止 (OG 26-09)
Vladyslav Heraskevych v. IBSF & IOC
事案の概要(CASの結論)
ウクライナのスケルトン選手が、戦争で亡くなった同国選手の顔をプリントしたヘル メットを着用して競技に出場しようとしました。IOCおよびIBSFはこれを規定違反として着用 を禁じましたが、選手が着用を強行する意向を示したため、スタートリストから除外されまし た。CASは選手の申請を棄却し、除外処分を適法としました。
争点
競技の場での装備品によるメッセージ発信の禁止が表現の自由を侵害するか。実際に 着用する前の「事前除外」が比例原則に反しないか。
パネルの判断
「競技の場(Field of Play)」における意見表明の制限は、選手のパフォーマンスに 集中させるという正当な目的があり、人権規約上の表現の自由の枠内で適法であると判断され ました。メディア対応時など他での表現機会は確保されており、選手が規則違反を公言してい た以上、違反を防ぐための予防的除外措置は比例的であると結論付けました。
同選手は北京2022五輪においても、競技後に「No War in Ukraine(ウクライナに戦 争はいらない)」というメッセージボードを掲げました。当時IOCはこれを「平和への一般的 な呼びかけ」とみなし不問に付しています。 しかし、今回のミラノ大会では五輪からの除外と いう極めて厳しい処分が下されました。この点については、「北京でのメッセージも 一般的な平和の呼びかけなどではなく、明らかにロシアの侵攻に向けた政治的表現であり、今 回のヘルメットの趣旨と決定的な差はない。それにもかかわらず、一方は不問、一方は資格剥 奪という両極端な結果の差が生じるのはおかしい」という、対応の一貫性の欠如に対 する強い批判が上がっています。
CASアドホック部門への提訴には、厳格な時間的管轄や内部救済手続の尽了が求められ、また 法的権限を持つ適切な相手方を選ぶ必要があります。スポーツに関わる関係者は、こうしたル ールの運用をあらかじめ把握しておくことが重要です。
